Valav Nijinsky / 1888(1889?)-1950
1911年4月19日モンテカルロにて初演
バレエ・リュス
振付:ミハイル・フォーキン
音楽:マリア・フォン・ウェーバー(ウェーバーの「舞踏への招待」を
ベルリオーズがアレンジ)
衣装・装置:レオン・バクスト
バレエ好きなら皆知っている伝説のダンサー。
舞台「薔薇の精」で脚光を浴びる。
フランスの詩人テオフィル・ゴーティエの「わたしは薔薇の精、昨晩の舞踏会にあなたが連れていってくれた」の詩句が原作。舞踏会から戻った少女と、薔薇の精のまどろみの夢幻の物語。一幕物。
舞台の最後に、薔薇の精が舞台袖へと跳び去っていく様子は、まさに薔薇の精が窓から飛んで行くかのようだったという。
跳び去った舞台袖では、彼は昂ぶりのあまりうずくまり、しばらく動けなかった。
山岸涼子によって「牧神の午後」という短編伝記漫画にもなっている。
その娘キラは宗教まがいと一部から評される活動をしており、インタビューからは独自の世界がうかがえ、ニジンスキーの娘だというのも頷ける。
【プロフィール】
1888年ころ、ロシアのキエフで生まれる。
両親はポーランド人の旅回りのダンサーだった。
才能を認められ、名門・マリインスキー劇場付属舞踊学校に入学。
卒業後にマリインスキー国立バレエ団に入る。
その後、バレエ・リュスのプロデューサー、セルゲイ・ディアギレフに引き抜かれ、バレエ・リュスで活躍。
1911年の「薔薇の精」の舞台で、彼の名声は不動のものとなる。
バレエダンサーとしては不利と思われる低めの身長でありながらも、鍛えられた太腿からはなたれる、空中に静止するかのような跳躍で人々を魅了した。
また、ゲイであったディアギレフの愛人ともなり、パトロンとして手厚い援助を受ける。
彼が振り付けをした舞台「牧神の午後」は、あまりにも斬新な振り付けと、ニンフに袖にされた牧神・パンが自慰をするという露骨な性的表現(あまりに陶酔した彼は本当に舞台上で自慰行為をしたという)で、初演では観客が騒ぎを起こし、大混乱を招く。
マスコミからも酷評されるが、前衛派から非常に高い評価も得る。
1913年、ハンガリー人でほとんど言葉も通じなかった状態の女性、ロモラ・ド・プルスキーと公演ツアー中に突如結婚。それがディアギレフの怒りを買い、バレエ・リュスを追放。
脚光を浴び活躍した期間は、わずか10年足らずであった。
その後狂気に陥り、回復することなく約60歳で死亡。
「ニジンスキーの手記」には彼の狂気の軌跡が色濃く読み取れる。
療養中、調子がよいときに、介護施設で患者達に踊りを見せることを頼まれた。
彼はオルガンでバッハの曲を弾き、その後皆の前で長い間立ち尽くし、
やがてゆっくりと腕を大きく広げて下ろした。
それで彼は満足げに「踊り」を終わらせたという。
「神を喜ばせるために踊り続ける、神の道化」
と呼ばれる彼の踊りは、まさに神のためのものとなっていったのである。
おそらく世界一有名な伝説のバレエ・ダンサー、
ヴァスラフ・ニジンスキー。
精神と生き様とバレエの激しさでほとんど伝説化している。
もう熊川哲也どころではない。
しかし、今生きてる人のほぼ100パーセントが、
彼の舞台を見たことがない。
それなのに、今でも人々を魅了してやまない。
その理由を考えると
舞台の映像は残ってないが、
日記などの資料が豊富で、
特にその写真の姿を目に出来るのが大きい理由の気がする。
上の写真小さく、よく伝わらないが、
演じている写真はみな、
その役の世界に浸りきった見事な顔と仕草。
活躍したのはほんの短い期間。
最後は狂って死んだ。
狂気の鬼才。
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